キュレーションの時代 佐々木 俊尚
先日,ショートフィルムを桜木町にあるショートショートシアターで見ました.
http://www.brillia-sst.jp/
その中の映画にMix-Up(http://www.brillia-sst.jp/theater_program/cat196/)という,映画がありました.映画の主張とは異なるかもしれませんが,今回の震災における,情報の取得方法に対して,自分が考えていたこととリンクさせるような内容だったため,少しまとめておきたいと思います.
Mix-Upという映画は,ある年老いた大工職人ビルが,番組ディレクターであるクライアントにたまたま気に入られ,日曜大工の番組にアドバイザーとして,出演しないかと誘われることから始まります.ビルは収録に向うも,違うスタジオで収録を行うはずだった同姓同名のビルと取り違え(mix-up)られ,違う番組の収録に出演することになってしまいます.その番組の内容は,人間関係を題材とした内容の番組です.そこで,ビルは疑問を感じながらも,なんとかコメントをして,収録をしていきます.聴衆は,人気ある番組の,権威あるコメンテーターのアドバイスに頷き,感動するというストーリーです.
僕は,この映画を見ていて,キュレーションの時代で述べられていた,文脈(コンテキスト)のない,記号的価値という言葉を思い出しました.テレビの聴衆は一見,ビルに共感し,コンテキストのある価値を得たようにみえますが,結局はそれは根拠のない情報で,マスメディアと大学の研究者という権威の記号的価値からもたらされているものです.なにせ,実際には,ビルは今の仕事の流れについていけずに,現場からは”やっかいもの”としてみられているような年老いた大工でした.
残念ながら,このことは今回の震災で,映画だけの話でないことが証明されてしまいました.放射能汚染のリスクを判断できず西に逃げる人々,被災地の復興を阻害する買い占めなどの行動は,文脈的に意味を見いだせていない多くの人がとっている行動だと僕は感じました.
また,マスコミに登場する解説者がキュレーターとして,不十分であることもよく分かりました.原子力保安院は,元特許庁などの役人であり原子力のプロではなく,原発事故を解説するTVのコメンテータの物理学の教授も,原発などのプラントには全く詳しくなかったりすることがあったりします.
一方で,Twitterやソーシャルメディアが,震災にどれだけ機能的かということも理解できました.Twitterは,誤った情報が錯乱するから良くない.と仰る方がいます.しかし,マスメディアが意味のある情報を流しているという保証もないことが,キュレーターとしての質が低いことからも分かります.僕はむしろ,自分で判断する情報が豊富な,ソーシャルメディアのが信頼性が高いと思います.それに,ローカルなリアルタイムの情報をピックアップするにはGoogle検索よりも,Twitterからの情報のが時には効力があることにも気づきました.
さらに,ソーシャルメディアの利点は自分も発信者になれることです.僕は,Facebookで,海外から被災者の情報を得たい人から,メッセージをもらい,ある程度,信頼性と情報量のあるサイトを教えました.僕は,ある意味ここで簡単なキュレーターになったと言えるかもしれません.
今回の地震では,このように昔からあるメディアと,最近芽生えたメディアの違いが如実に現れ,キュレーションの時代をまさに実感しました.多くの僕の周りの人は,これを実感しているようです.
しかし,残念ながらまだ情報の海を渡り歩くには,多くの人や,また場面によっては僕も,非常に混沌としている印象もあります.それは,まだ情報を自分たちで取捨選択し,それを理解し,表現し,人からフィードバックをもらい,より意味のある情報を生み出すような一連の過程に,多くの人が慣れていないのもひとつの原因だと思います.
これは,表現する喜びと多くの情報を得られる機会を多く与えられた現代で,致命的だと思いました.そもそも,日本人はこういった教育があまりされていないというのもひとつの原因かもしれません.残念ながら,僕の印象では,キュレーションの時代で最後に語られる,"来るべき世界"の風景にはまだまだ到達していないと感じました.少なくとも,現代の義務教育はこのキュレーションの時代と反対方向に向かっているなと感じています.これらの問題に対して,僕から何か残念ながら具体的な提案ができる訳ではないのですが,教育の体制を大きく変える必要性を,一段と強く感じた.そんな週末でした.